
私たちが、生き甲斐を感じ満足や幸福を味わう上で欠かせないのは、自分のやりたいこと、興味のあることを追求するだけでなく、自分をひとのために役立てることもあると思います。仕事をするのも金銭を得るためだけであれば辛いものでしょうが、その仕事が誰かのために役立っているという自覚を持てれば、苦労も報われるというものでしょう。
時に、人はお金にならないことでも頑張ってやるものですね。私たちがインターネットから多くの有益な情報を得られるのも、そうした人々の善意があればこそだと思います。最初は情報を受けるだけだった私が、興味本位ではありますが数年前からホームページを作る側に回ってみると、ページ作成には多くの労力が掛かっているのだということが理解できるようになりました。こんなどうでもいいようなページであってもそうなんですから、便利なアプリケーション・ソフトを作成して提供してくれるサイトや、役立つ情報満載のサイトを作るためにはどれほどの努力が傾けられているのかと思うと、ありがたいものだなと思います。
ところで、ホームページに限りませんが、私たちがひとのために良かれと思ってやっても、必ずしも感謝されるわけではないですね。場合によっては、いますぐ成果が出なくても、後の成果を期待して頑張ることもあるとは思いますが、基本的には、相手に喜ばれることを行うために時間を費やしたいと思うのではないでしょうか。人間には生き甲斐が必要ですから…。たとえ大金を支払うと言われても、何の役にも立たない穴を、掘っては埋め戻すような作業は苦痛でしかないでしょう。
で、私たちが何かを行う際に、人がそのことに金銭を支払おうとするかどうか、感謝の言葉を述べてくれるかどうか、それをある程度の判断基準にできると思うのです。感謝されないということは、それが人の役に立っていないからなのかもしれません。
もちろん、人間というのは感謝を忘れる生き物で、空気や水に感謝する人はまれでしょうし、いつも一緒にいる家族への感謝もつい忘れがちかもしれません。無くなって初めてその本当の価値に気付くことも多いかもしれませんが、ただ私たちの命には限りがありますから、時間を無駄なことに費やしていないかどうかという吟味は必要ですよね。何かのために時間や努力を傾けるということは、命を削っていることなのだからと、この年になって思うのです。
きょう、リンク集でもご紹介しているEQコーチングのページを読ませていただいたら、「時は命なり」という言葉を見つけました。「あっ、こう思ったのは私だけでなくて、先人も思っていたのだ!!」と気がついて、妙にうれしくなってこの文章を書き出したのでした。
こちらの→ページには、安藤百福の格言とありますが、私が思いつくくらいなので、きっともっと多くの人が気付いてきたことなんでしょうね。「時は金なり」より「時は命なり」。これがスタンダードにならないかな〜って思います。だって、お金より命のほうが大切ですから…。
本当に、時は命のはずなのに、大切に使っているかどうか心許ないです。
町田貞子さんの言葉に(あやふやです)、お金はそれこそ命を削るようにして得たものなのに、大切に使っていますか、というのがあったように思います。
時々原点に立ち返らないといけないですね。
誰かの役に立ちたいと願っておられるなんて、野ばらさんの意欲は気高いですね。私もそういう気持ちは持っているんですが、いつもいつもそうは思うように行動できていないです・・・
自分が良かれと思っていても、相手の望んでいることが充分理解できていないと、かえってありがた迷惑に思われたり・・・。そんな時は勉強になったかなと思いなおしたり、でも自分が誰かの力になりたいという気持ちから行動したということについては、自分を立ててあげようと思ったり。
ただ*W時代の経験で勉強になったことがあります。人はありがとうという気持ちをあえて表さないことがあるということ。逆ギレされることあえありました。多分、妬みとか出し抜かれたとかいう気持ち、また日頃自分を守ることだけに集中していたことに気づかされて、そんな自分を恥ずかしくなったのかもしれません。
だから私は、感謝されるかどうかということを評価の基準にするのはどうかなと思います。感謝を表してくれることを期待していると気落ちすることの方が多いのではないかと思います。やっぱり愛や親切や思いやりというものに関しては、「受けるより与える」ことに満足の理由を求めるのが、人生を豊かにすることだと思います。
私個人は、自分にとってほんとうにありがたいことをされたら、素直に感謝を表そうと思っています。そうすることがいちばんおおきなお返しだと思っています。
◇ ジーン・ジニーさん、ご意見、ありがとうございました。